◇大伯皇女のこと◇
大津皇子ファンの方には大変申し訳ないのですが、私は大津皇子ってあんまり好きではありません(^_^;)。なんだか傲慢なイメージがあるのです。彼よりも草壁皇子(くさかべのみこ)や高市皇子(たけちのみこ)の方が好きだったりします。でも、大津の同母のお姉さまの大伯皇女(おおくのひめみこ)は伊勢の斎王をお勤めだったことから興味を持っております。
大伯皇女は天武2年(673年)4月14日に伊勢の斎王に定められ、泊瀬斎宮(はつせのいつきのみや)で潔斎に入りました。この時大伯は13歳…結婚適齢期でした。(昔は大人になるのが早かったのよん。)壬申の乱も終わりそろそろ慶祝ムードの欲しい頃で、ふと見渡せば「大伯さまもいよいよ御婚礼か…」と宮中では大いに噂されたのではないかと思います。(第一候補は高市皇子とか。草壁皇子なら血の尊貴さから言っても年齢から言ってもお似合いだったと思うのですが、父が同じで母同士が同母の姉妹ではあまりに血が近すぎると忌避されたのかもしれません。讃良さんの「不同意!」の一喝があったようにも思われ。)しかし大伯皇女の血筋の尊貴さは、言い替えれば、彼女の配偶者となった人物の権力増大を意味し、その結果、弟・大津皇子の強大な庇護者を作り出してしまうことになるのです。母を早くに亡くしたことで大伯・大津は世間から同情されていましたが、壬申の乱を経て幼少ながら大津の剛胆さが証明され、次期天皇の候補として草壁皇子を押さえて彼の名が囁かれるようになりました。(戦場での高市皇子の働きは見事という他はないのですが、草壁・大津を押えて天皇になるにはいかんせん母の身分が低すぎました。)唯一、夫と共に壬申の乱を戦い抜いた大海人の妃・讃良さまにとっては非常に不本意な展開です。禍の芽は未然に摘み取るべし、ようやく治まり始めた国を再び皇位継承問題で乱すことなどもってのほか、ということで大伯皇女が伊勢の斎王に卜定(ぼくじょう)された可能性大なりなのでした。
大津皇子が謀叛の罪で刑死したのが朱鳥元年(686年)10月3日、24歳でした。同じ年の9月9日に父帝・天武が崩御していますから、電光石火の早技です。讃良皇后の周到な罠という見方もありますが、皇位を意識した大津皇子の言動が目に余って、それ以上放置しておくことができなくなったという、やむを得ない事情があったのではないかと思います。(←どうしても讃良さまを擁護してしまう私。(^_^;))11月16日に大伯は斎宮を退下(たいげ)しました。26歳でした。その後の大伯皇女には「謀叛人の姉」というレッテルが付きまとい、おそらく求婚する勇気ある者もなく、生涯を独身で過ごしたのではないかと思います。夏見に寺を建立し亡き父母そして弟の冥福を祈りつつ…。しかし大伯皇女はその後意外に長く存命しております。亡くなったのは大宝元年(701年)12月27日、41歳の時でした。大津皇子が亡くなってから16年の歳月が過ぎ去っておりました。当時の帝は草壁皇子の皇子・文武天皇でした。
退下後の大伯皇女の生活はどんなものだったのでしょうか。肉親は既に亡く、兄弟姉妹といっても異母では他人とほとんど変わりません。「謀叛人の姉」とレッテルを貼られてしまった以上、華やかな宮廷生活など不可能であったし、したいとも思わなかったでしょう。ひっそりと隠者のように暮らし、日を追うにつれ心は御仏の元へと近付いて行ったのではないでしょうか。そして夏見寺の発願へ…。ところで状況が複雑に錯綜したことによって、心ならずも大津とはライバル関係にならざるを得なかった草壁皇子ですが、彼自身に大津皇子を嫌う気持ちはなかったのではないかと思います。むしろ大津に同情を寄せていたのではないかと…。彼が大津の死後長くは生きなかったのもその証では?草壁皇子の正妃・阿閇皇女(あへのひめみこ)は讃良皇后の異母妹ですが、彼女たちの母のレベルでも姉妹でかなり血が濃く、しかも愛子・草壁の妃にするほどだから讃良さまの覚えもめでたかったのではないでしょうか。一方、阿閇皇女は十市皇女と共に、斎宮にある大伯皇女の元を訪うております。阿閇皇女は大伯皇女とやはり同年代で、天智天皇の都・淡海宮では仲の良い友達だったのではないでしょうか。そう考えてみると、大津皇子の事件後も草壁一家の大伯皇女に対する態度はむしろ優しく、折に触れて慰め庇ったのではないかと思います。讃良さまも大津皇子のことがあったとしても、大伯皇女自身に憎しみがあるわけではなく、それ相応の配慮はしていたと思います。夏見寺建立の時にも援助はあったのではないでしょうか。草壁皇子には氷高皇女(ひたかのひめみこ)・珂瑠皇子(かるのみこ:文武天皇)・吉備皇女の3人の子供がいます。大伯皇女と阿閇皇女との関係から、この御子たちと大伯との関係も悪くはなく、もしかすると数多のきょうだいたちの中でも一際特別な思いを持つ大津・草壁の形代として、大伯は子供たちを慈しんだのかもしれません。文武天皇の時に大伯は薨じますが、氷高皇女たちが彼女を悼んで涙したかもしれないと考えると、なにか切ないような想いにとらわれます。
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