〜平将門にまつわる伝説〜
Last modified: Sun, 12 Jan 2003 16:09:49 +0900



by Naruse Hiroko
成瀬浩子様にお願いして描いていただいた平将門です♪

《平将門》

 上のイラストは成瀬浩子様にお願いして描いていただいた平将門(たいらのまさかど)です♪これぞ私のイメージしていた将門さんそのものです!!!力のある眼差し、美しい鎧、たくましい武者姿の将門さんを本当にありがとうございました。あまりに素晴らしい作品なので本当はフルサイズで載せたかったのですが、表示速度のことを考慮して縮小させていただきました。でも、画像をClickしていただけると大きなサイズでご覧いただけます。ぜひぜひClickしてくださいね〜♪

 時は平安。王朝文化が今まさに爛熟期を迎えようとしていた時代のことです。
 平 小次郎 将門(たいらのこじろうまさかど)は桓武天皇5代の孫と言われています。父は平良持(たいらのよしもち)。(良将(よしまさ)とする説もあります。)良持は朝廷によって鎮守府将軍に任じられ、長く所領を離れておりました。将門には兄が二人いましたが早逝したため、実質彼が嫡男でありました。
 世に言う天慶の乱ははじめ平氏一族の私闘とみなされていました。まあ、一族の内輪もめのようなものです。原因が何であったのか、史料が欠けているため定かではありませんが、どうやら土地問題であったようです。武士の世界に「一所懸命」という言葉があります。(現在では変形して「一生懸命」と言ったりしますが。)文字通り、一所の土地を守る為には命を賭けるという意味です。この言葉はもっと後の時代に成立したものかもしれませんが、将門の時代についてもよくその事情を表しています。所領問題はこの時代の武士にとっても重大かつ死活の問題だったのです。将門は源護(みなもとのまもる)と平真樹(たいらのまき)の土地争いの調停を引き受けたらしいのですが、その結果護側の怨みを買ってしまい、護の息子たちが彼を待ち伏せにして討ち取ろうとしたのです。けれど、悲しいかな彼らの合戦の能力は将門の比ではなく、護の子・扶(たすく)・隆(たかし)・繁(しげる)の3人は将門によって返り討ちにされてしまいました。この事件を発端に続く合戦は将門にとっては全く不本意なものだったようで、幾度も「やめんと欲」したそうですが、やめることは不可能だったようです。源護と将門の伯父たちは婚姻関係があったから、平氏一族を巻き込んでの争いに発展していきました。「将門記」によると将門は理不尽な目に合わされながらも、自分から事を起こす事はせず、かなり長い間受身で耐えていたようです。相手が弓矢に訴えてきたからやむを得ず受けて立つ、そういう感じでした。しかし、一旦始まった紛争は留まる所を知らず、泥沼化していったのです。
 将門の姿勢は常にもののふの道に則ったもので、卑劣な手段を講じた伯父たちに対しても可能な限り情けをかけていました。将門のいくさぶりは姿がよく、また非常に強かったそうです。そして義侠心がありました。その気質がかえって仇となったようです。
 将門の運命が急変するのは、武蔵の国司と郡司の紛争を調停するために武力をもってした時からでした。将門に逐われて京へ逃げ帰った源経基(みなもとのつねもと)は、将門・興世王(おきよのおう)・武蔵武芝(むさしのたけしば)を謀叛の志ありとして、朝廷に訴え出ました。とうとう将門は朝廷に弓引く者とされ、追捕(ついぶ)を受ける身となってしまったのです。

 ここに至って、将門は遂に自ら起ち、「新皇」と号して坂東八ヵ国を斬り従え、関東における政(まつりごと)を自らの手中に収めたのでした。しかし、朝廷から派遣された藤原秀郷(ふじわらのひでさと:俵藤太)と平貞盛(たいらのさだもり:伯父・国香の息子で将門のいとこに当たる)の奇襲に遭い、藤原秀郷の放った矢をこめかみ(眉間という説もあります)に受けて絶命しました。

【協力】
    成瀬浩子様のHPです。

【参考資料】
   「平将門資料集」新人物往来社
   「将門伝説」梶原正昭・矢代和夫/新読書社