〜平将門にまつわる伝説〜
Last modified: Fri, 14 Dec 2001 15:56:52 +0900



東京大手町の首塚
将門塚(首塚)

《首塚の祟り》

 さて将門公と申せば、お聞きになりたいお話はもちろんあの首塚の祟り話でございましょう。

 時は慶応3年(1867年)と申しますから、明治のご維新が成って新しい政府が発足した頃のことでございます。
 将軍家お膝もとの江戸も東の都…すなわち東京と改められ、江戸の名残の武家屋敷の多くは取り壊され、政府の庁舎に建て直されたのでございます。『将門塚』あるいは『将門公の首塚』と呼ばれる塚は、酒井雅楽頭(うたのかみ)と申した御方のお屋敷の中にございましたが、このお屋敷も明治2年(1869年)に大蔵省の新庁舎に建て直されたのでございます。文明開化の明治らしく洋館の造りでありました。古くから祟ると言い伝えられてきた将門公の首塚も、その神威を恐れられたのでありましょうか、この新庁舎の一画にそのまま保存されることになったのでございます。
 『平将門古蹟考(たいらのまさかどこせきこう)』という古い書物に当時の首塚の模様が記されておりますので、かいつまんでその様子をご説明いたしましょう。
 大蔵省の玄関を入りまして左手すぐに『神田明神の御手洗池(みたらしいけ)』と呼ばれている300坪ほどの蓮池がございます。その池の南側に高さ4.5mほどの土盛りがあり、それが将門塚と呼ばれていたそうでございます。この頃までは将門公の首塚は古墳のさまであったと申せましょう。塚の周りは古大樹がうっそうと繁って日光を遮り、昼なお暗く鬼気迫る雰囲気だったと申します。

 大正12年(1923年)、あの恐ろしい関東大震災で大蔵省庁舎は罹災し、将門塚も大きな被害を受けてしまったのでございます。そのため将門塚も含めたあたり一帯が整地されることになったのでございます。それならばこの機会に思い切って塚の発掘を行おうではないかという話がまとまり、その年の11月には早速、大熊喜邦工学博士たちの手によって塚の調査が始まったのでございます。塚の中からは小さな石室が掘り出され、その中には江戸時代の物と思われる瓦や陶器の破片の混じった土があり、石室自体は1度盗掘された後補修されたということが認められたと申します。しかし、この塚が果して真実将門公のものであったかどうか、その正体は判然としなかったのでございます。
 発掘調査の後に石室は壊されてその上に仮の庁舎が建てられました。奇怪な事件はその後まもなく起こったのでございます。
 なぜか大蔵省内の役人と工事関係者の間に死人が出る、怪我人が絶えない、時の大蔵大臣・早速整爾氏を始めわずか2年の間に営繕局工務部長・矢橋工学博士以下14名が亡くなり、武田政務次官・荒川事務官以下数えあげるのもわずらわしいほど非常に多くの怪我人が出たと申します。それもなぜか足に負傷する者が多く、将門塚を壊した祟り、あまつさえその上に庁舎を建てて将門公を足下にした祟り、という噂が流れ人々は戦慄したのでございます。このため塚跡に建てられていた仮の大蔵省庁舎は遂に壊されるに至ったのであります。
 そして、動揺やまぬ大蔵省内を静めるために、昭和2年(1927年)4月27日、富田理財局長が祭典委員となり、神田明神の平田盛胤宮司が祭主となって、盛大な将門鎮魂祭が執り行われたのでございます。新任の三土忠造大蔵大臣、山口参与官、黒田次官以下全員が玉串(たまぐし)を奉奠(ほうてん)したという由。ここまでやってようやく大蔵省内の不安が鎮静したと申しますから、一連の『将門公の祟り』に人々がどれほど恐れおののいていたかがよくわかるというものでございます。

 さてその後、慰霊祭は例年の行事として続いておりましたが、一応祟りは鎮まったこと、それに時局が切迫してくるに従って(これは第二次世界大戦のことでございます)、祭祀もおろそかになることが多うございました。まさしく天罰てき面とでも申しましょうか、昭和15年(1940年)6月20日、雨の中突然大蔵省本庁舎に落雷し、瞬く間に庁舎は炎上してしまったのでございます。落雷の場所が首塚のそばであったことから、またしても将門公の祟りという噂が広がり、またちょうどこの年は将門公没後1,000年に当たりましたので、盛大な壱千年祭が河田烈大蔵大臣の指揮の下に執り行われたのでございます。その際、関東大震災で焼け壊れてしまった古蹟保存碑を新しく作り直し、浅草柴崎日輪寺に保管されていた正和2年(1313年)の銘のある「南無阿弥陀仏」の拓本から写した小松石(旧碑は秩父石)の碑を、礎石の上に建てたということです。これが現存するものだとか。

 さて大蔵省本庁舎が霞ヶ関に移転した後、その跡地が東京都の本庁舎建設用地として都に移譲されたのでございます。しかし、昭和20年(1945年)5月29日の空襲であたりは焼けのが原になってしまいました。
 終戦後、進駐してきたアメリカ軍によって焼け跡が整地され、将門公の首塚の礎石も片付けられ、あたりはモータープールにされてしまったのでございます。ところが、この整地の際にブルドーザーが横転し、運転していた日本人が死亡してしまったのでございます。調べてみると墓のようなものがある、聞くと将門の塚であるという、なにしろこの首塚は祟るのでございます。そこで米軍の隊長に事情を話し、さらにマッカーサー司令部に出頭して陳情を繰り返したところ、大昔の大酋長の墓ということで了解を得、塚は残されることになったのでございます。
 昭和34年になって米軍が撤収すると、首塚は千代田区によって史蹟に指定されました。その後、この地は日本長期信用銀行と三井生命保険相互会社の、本社ビル建設用地として払い下げられました。
 昭和35年には史蹟将門塚保存会が結成され、保存事業に着手、現在に至るの由にございます。しかし、大きな祟りこそないものの、小さな祟りは幾度もあったそうで、昭和47年の段階ではまだ三井物産の労務担当者が毎月1日と15日に神田明神にお神酒を奉納していた由にございます。そのほかにも将門塚のあたりから大量の人骨が発掘されたというおどろおどろしい話もあるやにございます。