第31代 恬子内親王
Illustrated by
Kadota Sakura
Size 98 KB
在位天皇:清和(せいわ)
父:文徳天皇(もんとくてんのう)
母:紀静子(きのしずこ)

 恬子内親王(やすこないしんのう)の父は文徳天皇(もんとくてんのう)、母は紀静子(きのしずこ)である。静子は更衣(こうい)という一段低い身分の女官であったが、文徳天皇の寵愛第一のひとであった。文徳帝の皇后は「染殿(そめいどの)の后」と称され、美貌並ぶ者なしと謳われた藤原明子(ふじわらのあきらけいこ)である。しかし時の権力者・藤原良房(ふじわらのよしふさ)を父に持ちその権力を後ろ楯にしていてさえ、彼女は帝の愛を結び留めることができなかった。

 天安2年(858年)8月27日、文徳天皇の崩御により清和天皇(せいわてんのう)が即位した。わずか9歳の天皇である。その翌年の貞観元年(859年)10月5日、恬子内親王は伊勢の斎王に卜定(ぼくじょう)された。前斎宮・晏子内親王(やすこないしんのう)は異母姉であった。同日、賀茂の斎院に文徳皇后・明子を母とする儀子内親王(のりこないしんのう)も卜定された。
 ところで恬子内親王の同母のきょうだいには、惟喬親王(これたかしんのう)・惟条親王(これえだしんのう)・述子内親王(のぶこないしんのう)・珍子内親王(はるこないしんのう)があった。父帝・文徳崩御の折りには第1皇子・惟喬親王は既に16歳、文徳の死の前年(857年)の12月には元服を終えていた。にも関わらず、文徳の跡を襲って皇位についたのは皇后腹の幼い清和であった。
 惟喬親王に対する理不尽な仕打ちは、清和天皇が皇太子に立った時から既に始まっていた。惟喬親王を始めはるか年長の皇子が3人もいるにも関わらず、清和は彼らを頭越しに飛び越えて9ヵ月の赤子にして皇太子に立った。この時、世人の同情は惟喬親王に集まり、巷では強引に生まれたばかりの第4皇子を東宮(とうぐう)に据えた良房のやり方を風刺した童謡が流行った。

 大枝(おおえ)を走り超えて、走り超えて、躍りあがり超えて、
  われや護る田や 捜りあさり食(は)むしぎや 雄々(おお)いしぎや

 新斎宮・恬子内親王の周辺はこのような状況であった。
 貞観元年(859年)11月に大嘗会(だいじょうえ)が行われ、後に二条后(にじょうのきさき)と呼ばれる藤原高子(ふじわらのたかいこ)が五節舞姫(ごせちのまいひめ)を演じ、従五位下に叙せられた。恬子内親王も藤原高子も『伊勢物語』に登場する印象深いヒロインである。
 12月25日には、恬子内親王は鴨川の六条坊門のあたりで禊をし、宮中に設けられた初斎院(しょさいいん)に入った。『伊勢物語』に登場する主人公の「をとこ」とは在原業平(ありわらのなりひら)であると言われており、恬子内親王の兄・惟喬親王と親交があった。
 在原業平は平城天皇(へいぜいてんのう)の第1皇子・阿保親王(あぼしんのう)の王子という高貴な血筋であったが、不遇だった。というのも、父の阿保親王自身、母親の身分が低かったために第1皇子でありながら皇太子になれず、しかも文徳天皇即位の時に起こった陰謀『承和(じょうわ)の変』においては、恒貞皇太子(つねさだこうたいし)の謀反を大皇太后・橘嘉智子(たちばなのかちこ)に密告したという過去を持っていた。(ちなみにこの変では、嘉智子の一族で三筆のひとり、橘逸勢(たちばなのはやなり)も断罪されている。しかも失脚させられた恒貞親王は嘉智子の娘・正子内親王の皇子であるから、嘉智子にとっては孫に当たる。それなのに藤原北家良房と結んで恒貞親王を廃した嘉智子を正子は「震怒悲号」して怨んだという。)密告は阿保親王の評判を地に落とし、その子の将来にも暗い影を投げた。業平もその兄・行平(ゆきひら)も桓武天皇(かんむてんのう)皇女・伊登内親王(いとないしんのう)を母とし、平城天皇皇子・阿保親王を父としながら、政界では冷遇されていた。

 貞観2年(860年)8月25日、恬子内親王は鴨川で禊を行った後、野宮に入った。
 貞観3年(861年)9月1日、いよいよ発遣(はっけん)の儀式が行われた。八省院(はっしょういん)で別れの儀式に臨む恬子内親王に対したのは、幼少の天皇・清和帝ではなく右大臣の藤原良相(ふじわらのよしみ)だった。彼は藤原良房の弟である。介添えの尚侍(ないしのかみ)・源全子(みなもとのまたこ)は嵯峨皇女で、良房の正室・潔姫(きよひめ)の同母妹、そしてまた文徳天皇の皇后・藤原明子の叔母でもあった。恬子内親王の同母兄・惟喬親王を取り巻いた事情を考えると、なんと冷たい人々の視線の中で都を去る儀式は執り行われたことか。感受性の強い年頃の新斎王はこうした雰囲気を敏感に感じとっていたであろう。
 恬子内親王は都に心を残しながら伊勢へと群行(ぐんぎょう)した。

 さて『伊勢物語』の第69段と第70段に〈狩の使い〉の物語がある。そこに描かれた〈狩の使い〉は在原業平、〈斎宮〉は恬子内親王のことだと言われている。『伊勢物語』の第69段の最後には、
「斎宮は水の尾の御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬の親王の妹。」
と記されており、すなわち恬子内親王のことである。業平は恬子内親王の兄・惟喬親王と親交があり、『伊勢物語』の中にもその様子を描いた段がいくつかある。兄と親しい間柄の業平と内親王はまるで知らない仲でもなかったらしい。以下に〈狩の使い〉の段の概略を紹介する。

 ある時、伊勢の斎王の元に都の親元から文が届いた。
「近い内に狩の御使いがそちらに赴かれるが、大事な方だからいつもの使いよりもずっと丁重におもてなしなさい。」
そういう内容であったから、斎王は準備万端心をこめて用意した。
 さて、使いが斎宮に到着した時、斎王はその使者のすばらしさに感動し、使いの男の方も御簾(みす)ごしにほの見える斎王の面影の麗しさに心をときめかせた。お互いに、
「どうかして二人だけの時間を過ごしたい。」
と願ったが、なかなかその機会が訪れない。
 恋心に思い悩む男の寝所の外に、深夜人々の寝静まった頃、何者かの影が立った。おぼろな月明りを背に夢のように訪れたのはかの斎王であった。短か夜はしかしすぐに明けてしまう。尽きせぬ名残の中、ふたりは歌を読み交わす。

 斎王、
 君やこし我や行きけむおもほえず
  夢か現(うつつ)か寝てかさめてか

 男、
 かきくらす心の闇にまどひにき
  夢うつつとはこよひ定めよ

 このふたりの間に禁忌を犯した契りがあり、それによって男の子が生まれたという伝承があった。それが事実であったのかどうか確証はないが、この伝承は秘されて生まれた子・高階師尚(たかしなのもろなお)を祖先に持つと言われている高階家に語り継がれていた。そしてこの時代よりもずっと後、藤原道長の時代に公けの場で語られるのである。一条天皇が三条天皇に譲位する際に、その皇太子を一条の皇子の誰にするかという問題が起こった時のことである。故皇后・定子腹の第1皇子・敦康親王(あつやすしんのう)を退け、中宮(ちゅうぐう)・彰子(時の権力者・藤原道長の娘)の皇子・敦成親王(あつひらしんのう)を推す理由を、藤原行成(ふじわらのゆきなり)が帝に奏した言葉の中に現れているのである。
 「立太子の儀は人間の意志ではなく伊勢の皇大神の意によって決められるのであるが、敦康親王の母・定子は藤原道長の実兄・道隆と高階貴子の間の娘である。高階家はかつて斎宮のことがあり、伊勢の皇大神の不興を買っており、故に皇太子にはふさわしくない。」
というようなことを行成は奏上した。
 定子の兄で同じく高階貴子腹の藤原伊周(ふじわらのこれちか)に道雅(みちまさ)という息子があったが、彼は三条天皇の愛娘でやはり伊勢の斎王に立った当子内親王(まさこないしんのう)と祝福されない恋を契り、高階家と斎宮との悲しい伝説をまたひとつ重ねた。

 伊勢に群行して5年の貞観8年(866年)2月、恬子内親王は母・静子を失った。にも関わらず、斎宮退下(たいげ)のことはなかった。そして閏3月10日、応天門(おうてんもん)が炎上した。火災は放火であり、放火を命じたのは左大臣・源信(みなもとのまこと)であると、藤原良房に告げたのは、古代以来天皇警護の役を自負してきた名族・大伴氏(この頃には淳和天皇(じゅんなてんのう)の親王時代の名・大伴に遠慮して「大」の字を削り、伴氏と称していた)である大納言・伴善雄(とものよしお)であった。しかし、良房は善雄の「源信犯人説」を讒言と決めつけ、かえって善雄を罪に落とした。この事件は大疑獄に発展して伴氏、紀氏、嵯峨源氏の源信、そして娘を清和の女御に納れて廟堂に勢力を伸ばしていた良房の弟・藤原良相を没落させた。

 貞観9年(867年)、恬子内親王は20歳ほどの年頃であったが、この年には斎宮寮内での穢れが多く発生した。2月には斎宮寮で火災が起こり官舎が炎上し、9月には寮内で殺人事件が発生した。
 翌年(868年)9月14日、恬子内親王の兄・惟条親王が亡くなった。同じ年の12月16日には女御(にょうご)・藤原高子に貞明親王(さだあきらしんのう:後の陽成天皇)が誕生した。そして貞観11年(869年)2月1日にははやばやと乳飲子の貞明親王が皇太子に立った。時の流れも世の流れも、惟喬親王や恬子内親王の事など知らず顔をして通り過ぎて行く。
 やがて貞観14年(872年)の秋、惟喬親王は29歳の若さで出家した。その頃インフルエンザが大流行しており、惟喬親王もこれに罹ったゆえである。当時のインフルエンザは命とりになる恐ろしい病気であった。出家した惟喬親王は比叡山の麓の小野の里に隠棲した。小野の里は『源氏物語』の中にも登場している。夕霧が言い寄った落葉の宮が、母・御息所の病の祈祷のために滞在していたのが小野の里であり、入水しきれなかった浮舟が助けてくれた尼たちと共に住んだのも小野の里である。『伊勢物語』にはまた業平が出家した惟喬親王を小野に訪なう段もある。
 貞観18年(876年)、淳和院(じゅんないん)、冷泉院(れいぜいいん)、と火災が続き、遂に大極殿(だいごくでん)までが焼け落ちてしまった。この年の10月5日には賀茂斎院・儀子内親王が病気のために斎院を退下した。そして、11月29日に清和天皇はまだ27歳の若さで9歳の陽成天皇に譲位する。これによって、恬子内親王は斎宮を退下した。斎王として過ごしたのは18年、三十路に入ろうかという年齢になっていた。翌年春、恬子内親王は上洛し、長い歳月を離れ離れで過ごした惟喬親王や妹の内親王たちと再びあいまみえる事ができたが、その翌年にははやくも妹の珍子内親王を失ってしまった。
 その後の恬子内親王の消息は伝わらない。陽成・光孝・宇多・醍醐の御世を生きて、延喜13年(913年)6月18日、無品(むほん)のまま薨じた。

 在原業平は元慶4年(880年)5月28日、恬子内親王が帰京して4年後、56歳で亡くなった。『古今集』に彼の哀傷歌が残されている。(同じ歌は『伊勢物語』第125段にもある。)

 つひにゆく道とはかねてききしかど
  きのふ今日とは思はざりしを