大和朝倉駅
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隠国(こもりく)の 泊瀬の山は 出で立ちの よろしき山 走(わし)り出の よろしき山の 隠国(こもりく)の 泊瀬の山は あやにうら麗(ぐわ)し あやにうら麗(ぐわ)し(雄略紀6年)
近鉄大阪線の大和朝倉駅で下車して駅の北側に降ります。今回はここを起点に長谷寺まで歩いてみました。初瀬川と寄り添うように走る国道165号線に沿って歩きます。(初瀬街道とか伊勢街道とか呼ばれた道とほぼ同じルートです。)国道165号線は片側一車線のあまり大きな道ではないのですが、伊勢方面に抜ける重要な交通路のためか、交通量が大変多く歩きにくいので、できるだけ脇道を通るようにしました。
初瀬街道は古代に伊勢の斎王さまが群行(ぐんぎょう)した道のひとつに想定されています。(もうひとつは初瀬から都祁(つげ)の山間の道に入り、名張から壱志(いちし)へ出て、後世斎宮の建てられた多気(たけ:現在の三重県多気郡)に入るルートがあります。このルートをとると、天武天皇皇女・大伯皇女(おおくのひめみこ)が潔斎をした泊瀬斎宮の跡だという伝説の残る、天神社を経由することになります。)
初瀬は泊瀬とも書きます。ここは古代において葬送の地であり、また神聖な場所でもありました。神の山・三輪山を望み、(現在でもそうですが)伊勢に抜ける重要な道・伊勢街道が通り、大阪の大和川から初瀬川へと舟で遡ってくる水運が開け(高速道路や鉄道のない古代においては「川」による運送力は非常に重要だったのです)、舟で運ばれて来た荷物の一大集積地である海石榴市(つばいち)があり、古代の大街道・上ツ道がそばを通っておりました。現在では往時を偲ぶにはかなりのイマジネーションが必要ですが、さしずめ東京の大繁華街といった賑わいをかつては見せていたのではないでしょうか。雄略朝には首都(宮)まで置かれていましたからね(^_^)。
大和朝倉駅近くから望む三輪山
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ところで、大和朝倉駅の南側…今回の散策ルートとは駅を挟んで反対側になりますが、そちらには古代史の中にたびたび登場する地名・忍阪(おしさか)がありまして、舒明天皇陵や鏡王女(かがみのおおきみ)の墓があります。その近くには、欽明天皇皇女・大伴皇女(母は蘇我の堅塩媛(きたしひめ))の墓もあります。鏡王女(かがみのおおきみ)は舒明天皇の皇女ではないかという説もあります。通説では、鏡王女(かがみのおおきみ)は鏡王(かがみのおおきみ)の娘で、額田王(ぬかたのおおきみ)の姉ということになっていますが、上の説に従うと、鏡王女(かがみのおおきみ)と額田王(ぬかたのおおきみ)は姉妹ではなくなってしまいますね。
ところで雄略さんに関係のある人で忍阪(おしさか)といえば、忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめのみこと)です!この方は雄略天皇のお母さまです。
日本書紀に描かれた忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)は気性が激しく、嫉妬深く、何事も根に持つタイプ。こわ〜い女性でした。彼女の気性の激しさを最も端的に表すエピソードを日本書紀の中からご紹介します。
それは忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)が雄略天皇を出産した日のことでした。これ以前に、忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の夫・允恭天皇(いんぎょうてんのう)は彼女の妹の弟姫(おとひめ)を後宮に入れておりました。弟姫は「衣通郎姫(そとおしのいらつめ)」と呼ばれるほど美しく、允恭天皇(いんぎょうてんのう)の寵愛はこの妃に厚かったのでした。出産の当日、忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)が命懸けで雄略天皇を産もうとしているまさにその時、允恭天皇(いんぎょうてんのう)は弟姫の所にしけこんでよろしくやっていたのでした(-_-;)。出産後、その事を知った忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)は烈火のごとく怒り、産殿に火をかけて生まれた皇子共々自殺しようとしました。允恭天皇(いんぎょうてんのう)は平謝りです。でもこんな仕打ちを受けたら、忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)でなくても怒りますよね。允恭天皇(いんぎょうてんのう)、ひどいと思います。
ちなみに、雄略天皇が生まれた時、御殿に神々しい光が満ちたと書記に描かれています。
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